国立慶州博物館の石燈  千葉市の植木屋『千葉水石』 
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国立慶州博物館の石燈
慶州市内を巡ってあちこちに遺された石燈籠の部材の多さには
驚きました。

よく韓国は、石塔の国と言われますが
新羅時代の慶州は、石燈の街だったのではないでしょうか。

ただ、統一新羅時代から完存しているものは
仏国寺大雄殿前の石燈1基だけです。
仏国寺大雄殿前石燈
                  高310cm  8角

竿が綺麗すぎる気がするが完存
仏国寺創建と同じ時期8世紀中ごろのものか
新羅時代石燈籠の基本形、飾り気がなくとてもシンプル
現在韓国に遺された石燈は、これを手本に改良
発展していったのではないでしょうか?

何故か文化財指定されていない
後の時代に欠けてる部材を新しく補ったり   (後補)
同じような時代の部材を当てはめたりした物が (別物)

仏国寺極楽殿前に
      後補の石燈が1基
国立慶州博物館に
      別物の石燈が1基
      後補の石燈が1基あります
仏国寺極楽殿前石燈
                  高230cm  8角

仏国寺大雄殿前石燈をひと回り小さくした石燈


朝鮮寶物古蹟図録第一 佛国寺と石窟庵』に写真と解説があり

大雄殿前石燈に似て形梢小さく、しかも中台と竿石とは大正14年の修補である。しかしながら地台(基礎)の蓮弁、火袋の形状等前者(大雄殿前石燈)に優るとも劣らざる彫法を示し」とある。

見た所、竿は修復、中台は、後補
火袋も後補に思える
慶州邑城石燈(慶州邑城壁発見石燈)         
                  高320cm  8角

火袋を別物で補った石燈

国立慶州博物館内 新羅歴史館裏側に
レプリカの仏国寺釈迦塔と多宝塔の間に堂々と建っている

竿が太く全体的に重たい感じ
石燈立札

いくつかの場所で集めた部材を合わせた石燈
大正9年(1920年)発行建築雑誌582号』
慶州を中心とせる新羅時代の石燈論藤島亥治郎著の論説に
この石燈を慶州邑城壁発見石燈(附、傳普門里廃寺火袋)とあり

「中台以下は完存するも、笠は、破損甚だしく、火袋を欠失する。然るに旧慶州博物館蔵傳普門里廃寺発見の火袋がこの石燈にすこしの不自然も無く適合するのを以ってこの二種を合わせて上下揃った者として建てた

石燈中台上

大きさも合った伝普門里廃寺火袋
石燈基壇

側面に各4個の格狭間を刻む
石燈基礎

複弁の蓮弁を刻む
慶州邑城石燈(東部里廃寺石燈)          
                  高563cm  8角

中台以上後補の石燈

国立慶州博物館内 新羅美術館裏側に

高さも迫力もあり、これはこれでバランスがとれている
大きさは違うが、思いっきり仏国寺大雄殿前石燈を模した復元
石燈立札

慶州邑城内にあり、基壇、基礎、竿石だけあり
博物館に移転した際に中台以上を推定復元
慶州邑城石燈中台下

竿から下だけで約280cmある
慶州邑城石燈基礎

基礎側面に格狭間を深く刻み、その中に八部衆を一体づつ
浮彫してある
慶州邑城石燈八部衆

8面共姿勢が異なる 
大正6年(1917年)発行朝鮮古蹟図譜4』に写真が載せてあり
解説には

「この石燈は、慶尚北道慶州邑内にあり。今転倒して地台石(基礎)
竿石、蓋石(笠)を存し、火袋石、宝珠石を亡ひたり。

地台石(基礎)は、八角にして各面に格狭間を見はし、内に天部の像を刻出し、上部に蓮座を作る。手法甚だ雄健なり。

蓋石(笠)は、軒下に當れる所に許多の蓮弁を三層に刻せり
精緻寧ろ驚くべし。要するに此石燈は當代の初期の者なるべく
此種最傑出せる者なり。
唯火袋石を失ひ形態の完からざるを惜しむのみ。」とある
朝鮮古蹟図譜4から

基礎の傍らに倒れる竿
朝鮮古蹟図譜4から

土塀の脇に軒裏が上を向いている笠
  
                  
大正9年(1920年)発行建築雑誌582号
慶州を中心とせる新羅時代の石燈論藤島亥治郎著の論説には
この石燈を
東部里廃寺石燈と記述してあり

慶州面東部里舊守備隊(現製紙場)前にあり
 大正4年(1915年)旧慶州博物館に移す

今の桂林小学校付近(慶州市北部洞)にあったと思われる

「笠は軒下に三出の持送あり、各出に細微なる蓮弁を彫り出し
爲に軒下はすこぶる重厚複雑の感を興へる。
蓮弁は下層32弁、中層40弁、上層亦32弁あり
中、下層は弁形同じく、上層のみ各弁の間に細弁を添える」
とある。 
朝鮮の建築と芸術関野貞著にも
朝鮮古蹟図譜4と同じ写真が2枚あり解説
には

慶州邑内石燈
慶州邑内鎭衛隊前の道路にありて台座、柱及び蓋(笠)のみを存し
中台と
火袋とを亡ひたり。
もしこれらにして具備したらんには、朝鮮に現存せる石燈の
最も傑出せる者なりしらん。…中略…  
柱は、単に八角形に過ぎざれども、蓋(笠)は其の下端に尤も織麗なる蓮弁を三層に造り出せり。」
と記述してある。
朝鮮慶州の美術中村亮平著にも

口絵に旧慶州博物館に展示された基礎の写真があり
本文には、八角石燈と題し1ページの説明の中に

「臺石(基礎)は雄麗で、無比の傑作。
蓋石(笠)の裏面には、豊麗な蓮華紋様が彫刻してある。
自由な洗練された手法は、固い岩石に怎うして比様に施し得たかと思うようなものである。」
と記述してある。
石燈籠』天沼俊一から

昭和2年9月、旧慶州博物館に展示された様子

朝鮮古蹟図譜4の解説
を引用して6ページにわたり紹介している。
石燈籠』天沼俊一から

基礎上端、蓮弁の精細

弁の中央に円形の隆起をつくり、其の周囲に小さき花弁
いわゆる菊座の如きものをつけたので
同じく蓮花は立派だが…中略…  竿は如何にも寂しい。
ただ八角形の棒ではどうも物足りない。」
石燈籠』天沼俊一から

笠は上からみると、何の装飾もない八角八柱で
上に二重の段があり、軒先は隅に於いて少し反っているだけで
割合に簡単である。軒下の蓮弁は、弁上に長卵形の
隆起を有する厚手の単弁蓮花が密接して三重にあるのだから
おそろしく厚ぼったい。
尤も蓮花弁だからそう思はれるので、軒下に普通あるべき筈の
トキョウ(建物の柱の上にあって軒を支える組み木)であっても
やはりこの位の厚さになるであろうから、大して厚ぼったく思われぬかも知れない。
これで中台、火袋、宝珠があったら、其の美観偉観は想像に餘りあるであろう。」
それでは、推定復元時に使用されなかった笠はどこにいってしまったのでしょう
石燈笠 横から
                  幅約150cm  8角
国立慶州博物館内 新羅歴史館裏側

南側の芝生の中に石燈とは、離れた場所に沢山の石造物と共に展示されています
石燈立札

何の説明もなく
復元の時に博物館の方も石燈の笠には、悩んだことでしょう?
結局、
慶州邑城石燈復元には、利用されず
放置されてしまいました。

理由は判りませんが考えられることは
今までにない形状
厚さがあり重量がある
基礎、竿と比べると小さくバランスが悪いなど
石燈笠 上から

ホゾ穴が大きい
8角の受け
大きさを測ると
基礎幅 約210cm
笠幅  約150cm

せめて、基礎幅と同じくらいか少し小さいくらいでないと
大きさから見て笠では、小さすぎてバランスが悪く
なお且つ厚みもあり重さもあります。
復元に利用しなかったのもうなずけます。

大正、昭和と時代は少し古いですが、日本の学者たちが
石燈の笠と主張していますし
慶州邑城石燈と関係がある部材だと思いたいです。

大きさだけ見てみると笠だとバランスが悪く
中台だとちょうど良い気がします。

ホゾ穴、8角の受けが竿受になり三段蓮弁の上に火袋がきます。
ちょうど朝鮮古蹟図譜4写真で裏返っている笠がそのまま形で
中台になります。

韓国の石燈の中台も、日本の石燈籠と同じ様に竿をはさんで
基礎と対象となり、中台の下側には上向きの蓮弁を刻むのが
一般的だが、例がない形状なので、無理やりこの石燈の部材に
当てはめると大きさから中台になる。
中台だと三段蓮弁がある厚みも気にならなくなる。

実際に現地で基礎、竿と笠を見比べると、石質が違う気がします。

最近では、慶州邑城石燈とは関係なく、形状から8角石塔の笠ではないかという説もあります。
ただ、まったく石燈の笠ではないとは、言い切れません。
雲門寺金堂前石燈上部

慶尚北道 清道郡 雲門寺の金堂前や毘盧殿前の石燈笠の
下部に2段の受けがある
校洞石燈の家(カフェ)の裏庭には
石燈の部材、8角の中台、竿?、笠と重ねた物があり
笠を見ると
石燈の笠の下側に3段の持ち送り(支え)があり
この3段の持ち送り(支え)が慶州邑城石燈の笠の様に3重の連弁に
変化したのかもしれない。

このことから、慶州邑城石燈(東部里廃寺石燈)の笠ではなく
別の石燈の笠とも考えられる。
整理すると軒下に3段の蓮弁がある珍しい笠は
 1、慶州邑城石燈の笠
 2、慶州邑城石燈の中台
 3、石燈ではなく8角石塔の笠
 4、別の石燈の笠
はたして、この中に正解はあるのだろうか?
また、天沼博士は石燈籠』の中で韓国石燈の竿を
ただ八角形の棒ではどうも物足りない」とおっしゃっていますが

新羅時代の普通石燈は日本の石燈籠の竿にある中節や連珠文はなく
無装飾で基本八角柱である

ただ、日本の石燈籠にはない、
国宝の法住寺双獅子石燈や
華厳寺覚皇殿前の石燈など竿の変化が現れる。

法住寺双獅子石燈  国宝
                  高330cm  8角

竿が2頭の獅子に
華厳寺覚皇殿前石燈  国宝
                  高636cm  8角

鼓腹状(竿の腹がふくれている)の竿
竿だけでなく笠や宝珠にも変化が現れる
韓国の石燈は、仏国寺大雄殿前石燈の様なシンプルで
装飾のない物から時代が下るにつれて
火口だけだった火袋に四天王像などを刻み、装飾が多くなり

天沼博士
がおっしゃる通りに竿が八角形の棒では物足りなくなり
変化していったのではないだろうか。
国立慶州博物館に展示されている慶州邑城石燈(東部里廃寺石燈)の
推定復元の高さは563cmとずば抜けて大きく
韓国では国宝の華厳寺覚皇殿前の石燈の高さ636cmに次ぐ
2番目大きさです。

実際の姿は判りませんが
さぞかし、原場所のお寺も立派だったでしょう。
発見された場所にこの寺が在ったのか?
又は慶州博物館に展示されている興輪寺址石槽の様に後の時代に
別の場所から移されたものか?

基礎の彫飾、大きさ、笠の謎や献灯のやり方など
とにかくこの慶州邑城石燈(東部里廃寺石燈)は
興味の尽きない石燈です。
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